EUの人工知能規制「AI法」(Regulation (EU) 2024/1689)は2024年8月1日の施行以来、段階的な適用が続いてきたが、2026年5月7日、欧州理事会と欧州議会が同法を簡素化する暫定政治合意に達し、施行スケジュールそのものが見直される局面に入った。背景にあるのは欧州委員会が2025年11月19日に提案した「デジタル・オムニバス」パッケージで、AI法・GDPR・NIS2指令・DORA・データ法を横断的に整理し、企業の規制対応負担を軽減しつつ核心的な安全策は維持する狙いがある。Stibbeの分析によれば、これは競争力強化を掲げる欧州委員会の一連の規制簡素化路線の一環であり、AI法施行から2年足らずでの大幅な見直しは、当初の立法設計が企業の実装能力を過小評価していたことの証左とも受け止められている。
高リスクAI義務、2027年末・2028年夏へ新設された適用開始日
今回の合意で最も実務的な影響が大きいのは、高リスクAIシステムに関する義務の適用開始日が新たに設定された点だ。附属書IIIに定める単独型高リスクAIシステム(採用・信用審査・法執行支援等)は2027年12月2日から義務が発生する。一方、製品の安全部品として組み込まれるAI(附属書I、医療機器や機械類など既存のEU製品安全法制が適用される分野)は2028年8月2日が新たな適用開始日となった。当初は2026年8月までの適用開始が想定されていたことを踏まえると、実に1年から2年近い猶予期間の延長となる。企業側からは、適合性評価手続きや技術文書の整備、リスク管理システムの構築といった重い実装作業に十分な準備時間を得られるとの歓迎の声が強い一方、規制当局側には執行の実効性を長期間確保できないリスクも残る。
第50条の透明性義務、生成AIに4か月の猶予
他方、AI生成コンテンツの電子透かし・表示義務を定める第50条は原則として2026年8月2日から法的拘束力を持つ。しかし立法者は既に市場に流通している生成AIシステムについて、2026年12月2日までの4か月間の猶予期間(グレースピリオド)を新設した。BDOの解説が指摘する通り、この猶予は既存事業者の実務対応を後押しする一方、8月2日以降に新規参入するシステムには即時適用されるため、事業者間で対応期限に差が生じる点は注意が必要だ。既存の生成AIベンダーが電子透かしやメタデータ埋め込みの技術仕様を整備する時間を確保できる反面、新規に市場参入するスタートアップは規制対応コストを先行して織り込む必要があり、結果的に市場の先行者優位を強める副作用も指摘されている。
ガイドライン草案とCode of Practiceが実務の指針に
欧州委員会は2026年3月5日、AI生成コンテンツのマーキング・ラベリングに関する初のCode of Practice草案を公表した。第50条の透明性義務の実装方法を具体的に示すもので、遵守は任意だが、規制当局が実務上のコンプライアンス判断を行う際の重要な参照点になるとみられる。続いて5月19日には高リスクAIシステムの分類に関するガイドライン草案が公表され、業種別のユースケースに即した判断基準が示された。K&L Gatesの分析では、AI法は2025年2月からの段階的施行の中で金融セクター規制など既存の枠組みとの整合性確保が課題となっており、こうしたガイドラインの逐次公表は企業の統合的なコンプライアンス戦略構築を支える動きと位置づけられる。法務担当者にとっては、条文本体だけでなくガイドラインやCode of Practiceの改訂動向を継続的に追跡する体制構築が新たな実務課題となっている。
医療機器業界に及ぶ具体的な影響
今回のAI法改正は医療機器・体外診断機器(IVDR/MDR)分野にも直接影響する。Morgan Lewisの報告によれば、附属書Iに該当する製品組込型AIシステムの適用開始が2028年8月2日に設定されたことで、医療機器メーカーは認証機関(Notified Bodies)のリソース制約や再認証手続きの遅延懸念とあわせて、AI関連の技術文書要件を段階的に整備する時間を得た。新しい見積・スケジュールルールは2027年2月25日以前に締結された契約には適用されず、有効期限が2027年11月25日以前の証明書には再認証ルールが適用されないなど、細かな経過措置も設けられている。医療機器業界では近年、認証機関の審査能力不足が慢性的な課題となっており、AI法の新規要件がここに上乗せされることへの懸念が根強かった。今回の経過措置は、既存の製品ライフサイクルとAI法の新規義務を無理なく接続させる緩衝材としての役割を果たすとみられる。
業界の反応と今後の焦点
Center for Democracy & Technology Europeが2026年4月に発行した政策速報「AIブレティン」は、AIオムニバスをめぐる最終交渉が欧州の重要な岐路にあり、基本権保護をどこまで簡素化の対象にするかで意見の隔たりが残っていると伝えている。欧州委員会は競争力強化を旗印に規制コストの削減を進めるが、消費者団体や人権団体は安全網の後退を警戒している。今後の焦点は、2027年12月・2028年8月という新設された適用開始日までに、各加盟国の市場監視機関がどこまで執行体制を整備できるかにある。企業側は、透明性義務の実質的な最終期限である2026年12月2日と、高リスク義務の新期限を混同せず、それぞれ独立したロードマップとして管理することが求められる。エージェンティックAIやマルチエージェント構成のサービスを展開する事業者にとっても、こうした欧州の規制動向は今後のグローバル展開戦略における重要な前提条件となりつつある。

