作家性は消えるのか、それとも分かれるのか
生成AIが小説や脚本、企画書の下書きまで担うようになった今、「AIに創作を任せればオリジナリティは失われる」という懸念が繰り返し語られてきた。だが2025年後半から2026年にかけて発表された複数の研究と実務事例を突き合わせると、実態はもっと入り組んでいる。AIは作家性を一律に消し去るのではなく、書き手の間にあった個人差をむしろ拡大し、可視化しているという見立てが浮かび上がる。
本稿では、心理学研究、AI評価システムの逆説、そして日本のテレビ制作現場という三つの角度から、この「分岐」の実態を検証する。
ペンシルベニア州立大の研究が示した「格差」
Simone Luchini氏とRoger Beaty氏(ペンシルベニア州立大学)、James C. Kaufman氏(コネチカット大学)らの研究チームは、生成AIが創造性を「民主化」し個人差を縮めるかを検証した。Forbesの報道によれば、結論は逆だった。AIは創造性の低い書き手の作品の質を明確に向上させた一方、もともと創造的な書き手の作品にはほとんど差をもたらさなかった。これは前年にMIT Technology Reviewが報じた類似研究とも符合する結果で、研究チームは「AI支援下での創造性は独自かつ識別可能な能力である」と結論づけている。
さらにTech Xploreが報じた別の研究では、俳句や映画の粗筋、短編小説の創作課題でAIと人間参加者を比較したところ、最も熟練した人間の創作者が依然として明確な優位性を保っていた。同研究は、AIの創造性が「温度」というパラメータ調整で変動することも示した。Tech Xploreの記事によれば、温度を上げるとランダム性が増し、より大胆で意外性のある出力になる。加えて語源に着目したプロンプト戦略は、より独創的な連想を引き出すことが確認されている。つまりAIの創造性は「人間がどう操るか」に強く依存しており、道具の性能だけでは決まらない。
AI審査システムの逆説——独自性は「減点対象」になる
もう一つの重大な事実は、AIによる文章評価そのものに構造的な偏りがある点だ。2026年8月のForbes記事は、履歴書や研究論文などの審査にAIを使う組織が増える中、AIは自身や他のAIが生成した文章を高く評価し、丹念に手作りされた文章を減点する傾向があると指摘する。理由は明快で、大規模言語モデルはインターネット上の膨大な人間の文章を学習し、一貫した構成、明示的な接続詞、均整の取れた文構造、比較的堅牢な語彙使用というパターンを「質の高い文章」として内面化している。その結果、統計的に平均的なパターンから逸脱する独創的な文章や個性的な声を、AIは「質が低い」「明瞭さに欠ける」と誤認しやすい。応募者や執筆者は、規則に反してでもAIに文章を書かせるべきかという倫理的な「いたちごっこ」に直面していると同記事は表現している。
「平均への回帰」という現象
この構造的バイアスは、日常的な執筆支援の場面でも観察される。Ynetnewsのオピニオン記事は、AIモデルが書籍、記事、SNS投稿、レシピに至るまでの膨大なテキストで学習しているため、応答は本質的に「見てきたものの加重平均」になりやすいと論じる。角の立った表現や、ぎこちなくとも「その人らしい」言い回しは平滑化され、最も安全で予測可能な経路が選ばれてしまう。過去にも作家は校正者や編集者といった補助を受けてきたが、その関与は工程の一部に過ぎなかった。今日のAIはメール作成から法律文書の草稿まで、ほぼすべてを代替しうる点が質的に異なると同記事は強調する。ただし同記事は同時に、AIを単なる便利な近道として使わなければ、独創的思考をむしろ強化しうるとも指摘しており、道具の使い方次第で結果が分かれる構図はTech Xploreの研究と一致する。
文体は経験の逸脱からしか生まれない
より哲学的な角度からこの問題に切り込んだのがThe Atlanticの論考だ。ジェーン・オースティンとチャールズ・ディケンズはともに喜劇の名手だったが、彼女の皮肉めいた抑制とディケンズの誇張された劇的表現の対比は、階級やジェンダーを含む全く異なる人生経験を反映している。AIの文章がどれほど文法的に正確でも、それは「内側から見た人間であること」を語れない。同論考は19世紀の写真の登場が絵画を駆逐せず、むしろ写実の義務から解放された絵画が印象派やキュビスムという黄金期を迎えた歴史を引き合いに出し、AIも文学を同じように解放しうると主張する。凡庸に有能な文章が氾濫する世界だからこそ、経験を「内側から」語る大胆で頑固な書き手が必要になるという逆説的な希望がここにある。
人間が最後に選ぶ——制作現場からの実証
この構図を実務レベルで裏付けるのが、日本テレビの「東京巫女忍者」を巡るVarietyの報道だ。プロデューサーの鈴木氏によれば、当初は控えめな視覚表現として想定されていた守護霊フェニックスの召喚シーンで、生成AIは想像を超える規模と表現力を持つ映像を生成した。「羽ばたきの一振りが空間を歪め、時間を止め、画面全体を支配するようだった」と鈴木氏は語る。技術的スペクタクルが物語の規律を圧倒するリスクは「極めて高く、実際に起きた」と同氏は率直に認めている。しかし最終的な選択は常に監督の手に委ねられており、AIは表現と設計の可能性を拡張する役割に留められた。この事例は、AIがどれほど強力な出力を生成しても、意味づけと取捨選択という創造の核心的な工程は人間に残るという、他の研究結果とも整合する実証例になっている。
結論——作家性は「使い方」で二極化する
ここまでの事実を総合すると、AIが作家性を一律に破壊するという単純な物語は成立しない。むしろAIは、すでに高い創造性を持つ書き手をさらに伸ばし、標準的な文章を好むAI審査システムは平凡さを助長し、道具としてのAIをどう操るかという「人間側の能力」が結果を決定づける。オリジナリティは技術によって与えられるものではなく、技術を使う側の姿勢によって守られるか失われるかが決まる、というのが現時点での最も誠実な結論だろう。



